
企業が永続的に発展していくためには、社会のニーズや課題さえも明確になっていないプリコンペティティブ領域の研究に取り組むことも重要です。
キヤノンでは、カメラなどの現行製品やその要素技術、あるいは共通基盤技術に関する研究開発はもちろん、成果が出るまで10年以上かかる、長期的な視点に立った研究にも積極的に取り組んでいます。得られた研究成果をもとに特許の取得や学術誌での公表を行い、今後の技術競争力が見込まれる研究テーマについては、将来の事業展開に向けたさらなる技術を育成します。
キヤノンがいま力を注ぐ3つの研究テーマは、物体の内部情報を可視化できる「テラヘルツイメージング」、生体物質分布をイメージングし病理診断を支援する「デジタル質量顕微鏡」、皮膚から放出されるガス成分により超早期な疾病診断をめざす「皮膚ガスセンシング」。この他にも、世界的な学会から講演を依頼されるなど、高い評価を受けている研究テーマも少なくありません。
キヤノンは、真の技術イノベーションによって新たな市場を作り出すための「技術の芽」の創出に挑戦しています。


これまで周波数100GHz以下の電波は主に通信技術用途に、10THz以上は光技術として研究が行われてきました。近年になって、この電波と光の間にある「テラヘルツ波」と呼ばれる未開拓の周波数領域がクローズアップされています。
このテラヘルツ波の注目すべき特長は、物質への透過性と物質の種類を見分ける機能を併せ持っているという点です。テラヘルツ波は電波のように紙や布、さらには薄いコンクリート層まである程度透過します。また、テラヘルツ波が物質を透過する際、「指紋スペクトル」と呼ばれる吸収帯や反射帯が刻まれ、この材料固有の「指紋スペクトル」によって透過した物質の種類を見分けることができるのです。
こうした「これまで見えなかったものが見える」という特性から、テラヘルツ波にはさまざまな分野から有用なイメージングテクノロジーとして大きな期待が寄せられています。食品パッケージ内部の有機物類の透過検知や製品の非破壊品質チェック、血液検査やがん細胞などの病理診断に、医薬品錠剤の品質検査など、その応用範囲は幅広く多岐にわたります。
このようにさまざまな有用性を持ったテラヘルツ波が、他の周波数領域に比べて実用が遅れたことにはいくつかの理由が存在します。その一つが、テラヘルツ波の光源となる発光素子が実用化されていないことでした。
テラヘルツ波のイメージング分野での将来性を見出し、発光素子の開発に早くから着手したキヤノン。半導体レーザーデバイスの設計・開発で培ったプロセス技術をベースに研究開発を重ねた結果、ついに半導体チップでのテラヘルツ波発生に成功しました。キヤノンが実現したのは、パッチアンテナを用いてチップ表面から発生する面発光タイプ。面発光にすることで、従来のアンテナ構造に比べ高出力が可能になりました。さらに、連続発振や常温での動作が可能という他社方式にはない優れた特性も兼ね備えており、この功績によって、国内外の学会からアワードを受賞しました。キヤノンのテラヘルツ波発光素子の登場で、一挙に幅広いテラヘルツ領域の実用化が進むと見られています。

画像診断で「がんの疑いがある」と言われても、その段階では、まだ確定ではありません。がんの最終診断は「病理診断」です。がんがどこまで広がっているのか、手術ですべて取ることができたか、転移しやすいか否か、どのような薬が効くのか、これらは病理診断によって判定されます。
一般的な病理診断は、病変組織や細胞からガラス標本を作成した後、病理医が顕微鏡で細胞の形態やつながりを観察し、診断するというもの。乳がんや胃がんの病理診断では、がん細胞中の特定タンパク質の異常発現も調べ、この結果は術後治療の選択に大きな影響を与えます。また「病理学」は、病気の原因を解明する学問であるため、基礎医学研究の側面も持ちます。
近年、質量分析技術を発展させた質量顕微鏡を病理診断に応用する研究が進んでいます。従来の顕微鏡のように光や電子を検出するのではなく、分子の質量そのものを検出し、そのスペクトルを再構成して画像化することで、生体組織内の物質の分布を2次元的に把握しようというものです。質量顕微鏡の最大の特長は、生体組織内の物質を一度に、網羅的に検出できることです。
がん細胞中の特定タンパク質の発現を調べるには、現在、抗体染色法が用いられていますが、この方法では一つの試料について1種類、多くても3~4種類しか調べることができません。また、がんの発生には小さな分子(低分子量の分子)も関与していることが報告されていますが、現在、これを可視化する方法がありません。
病理診断が個々の細胞の形態や機能を調べることを基本としていることから、キヤノンでは、高い空間分解能が得られるTOF-SIMS法(Time of Flight Secondary Ion Mass Spectrometry)を中心に研究開発を進めています。この方法は、1次イオンを試料に照射したときに発生する2次イオンについて、飛行時間計測により、その質量と数を記録するというものです。
これまでに、TOF-SIMS計測の感度を向上させる方法や質量顕微鏡画像のノイズ低減法などを開発し、その成果の一部は2012年4月の日本病理学会や同年9月の国際質量分析会議で発表され、注目を集めました。キヤノンの質量顕微鏡は、病理診断の発展への寄与を目的としていますが、この技術が完成すれば、分子標的薬の開発などにも役立つものとして期待されています。
病気の患者が代謝によって皮膚などから放出する特有の微量成分を検出・分析し、疾病を特定する「皮膚ガスセンシング」という技術開発にキヤノンは取り組んでいます。糖尿病であれば、皮膚から発生するガスの中にアセトンと呼ばれる物質が健常者よりも多く含まれ、一部のがんの患者からはジメチルトリスフィドという物質が発生するという研究報告があります。
キヤノンがこれまで外部の医療研究機関と進めてきた研究では、100種類程度の皮膚ガス成分の検知に成功しています。今後は、これらの皮膚ガスと疾病の相関関係を明確にしていくことが課題です。また、診断ツールとして活用できるよう、疾病の判定基準の設定や皮膚ガス検出方法の見直しも進めていきます。
将来的にこの皮膚ガスセンシングによる診断が確立すれば、採血などのような患者の痛みを伴う検査をせずに疾病の発見が可能となるでしょう。さらに、検出・分析装置が大幅に小型・軽量化されれば、24時間自然な状態でのモニタリングに加え、病院ではなく自宅でも手軽に検査できるようになり、健康な生活に不可欠なツールとして普及するかもしれません。






