Canon

サイト内検索


写真で何ができるだろう?写真でしかできないことは何だろう?What can we do through photography? What is possible only through photography?

ENGLISH

第9回 写真新世紀展2000 公開審査会開催報告

公開審査会 2000年12月15日(金)

東京・青山モーダポリティカにて「写真新世紀展2000」を開催。 初日15日には、審査員 荒木経惟氏、飯沢耕太郎氏、南條史生氏、倉石信乃氏による公開審査が行われ、 第21回、第22回公募優秀賞受賞者8名の中から、2000年度グランプリに中村ハルコさんが選ばれました。また、特別賞には澤田知子さん、山田大輔さん、佳作から奨励賞として、岩本竜典さん、梅佳代さん、奥村欣央さんが選ばれました。公開審査、オープニングセレモニーには、優秀賞受賞関係者、写真関係者をはじめ、ギャラリー、美術館関係者、出版関係者、学生など、400名を超える来場者がありました。

イメージ

公募の審査にあたって

第9回 写真新世紀展2000 公開審査会は第21回・第22回公募作品を対象としています。

第21回 審査総評

荒木 経惟 Nobuyoshi Araki

これだけの量、様々なジャンルを満遍なく受け入れられるコンテストとなったのは、やっぱり10年の歴史ですね。あらゆる意味で広い受け皿を用意して時間をかけてやってきたことには、感慨深いものがあります。この10年、何度も応募してくれる人がたくさんいて作品を通して彼らと繋がってきた。その意味でも『写真新世紀』はひと味違います。それにしても今回は質が高い。つまり、応募者が媚びずに自分らしく作っているということですね。「21世紀を迎える前に初心に戻りたい。」そんな気分の私が今大切にしたいのは“品”のある作品です。写真に撮る人間の“品”まで現れてきたらもう恐い物なしだと思いますよ。

飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa

今回、気がついたのは、なぜかおばあちゃんの写真が多いこと。若い20代の女性や男性が、祖父母の世代を撮るというのが、おもしろいと思う。世代差が逆に好奇心や興味として働いているのかもしれない。それとともに、“死”を身近に感じる対象として、とてもいい被写体なのではないだろうか。ただし、安易なストーリー化は避けた方がよい。応募者数が500人を超えてくるような状況だと、そろそろ審査のやり方も考え直さなければならなくなってくる。特にアルバム形式のものは、作品の枚数が多すぎて見ているのが辛くなる。もう少しきっちりと絞り込んで出してきてほしい。

南條 史生 Fumio Nanjo

写真が魅力的に見えるのは、大ざっぱにいえば被写体が魅力的な時か、撮り方が普通ではない時だと思う。そして、いい作品はその両者がアマルガムになっている。いつもそういう作品に遭遇することを期待して審査をしている。
しかし、その2つが揃ってもそれが全てではない。完成度は高くても何かが足りないということがある。それは写真(アート)というものには、技術の先にある何か、人の心に触れる何か、不可解であったり、怖いものだったり、愛であったり、若さであったり、荒削りでもキラリと光る何かが必要だからなのだ。それは、写真を勉強することからは得られない。それはどんな本を読み、どんな友人と、何を語り、何を食べ、どんな旅をし、どんな体験をするかという「生きること」の中から把みとるしかないのではないか。それがポイントだと思う。

横尾 忠則 Tadanori Yokoo

応募者の大半を女性が占めているというのはすごいことですね。ものを創造するということからいえば、何か女性原理が男性原理を圧倒しているというか、優先しているという感じを受けます。ちょっと理屈っぽいんだけれども女性原理というのは触感的なもので受信能力、男性原理は発信能力なんですよ。そういうとほとんどこの公募は受信能力によって出来上がっているといえちゃうんだけれども・・・。
男性というのは、本能とか本性とかを出しづらいんですよ。女性はそれをなんなく出しているというのかな、大袈裟にいうと、生きていくということにまじめというのか、正直ですね。そういう感じを受けました。男性が願望としている対象というのは、社会とか外部に向けられている訳で、それに対して女性は内部に向けられているんですよ。それともう一つは、男性のそういう知性に対して女性の生理的な発想というか、それがやっぱり男性として見ると、感性をたれ流しにされてるような気がしますね。こういう圧倒的な量のファイルや表現をみて、ここでショックを受けない男性はこれから21世紀に生きにくいんじゃないかな。大袈裟だけどその男性はもうダメですね。あるいはその男性の中の女性原理を今後どういう風に、引っ張り出すかということが課題になってくるんじゃないかな。

第22回 審査総評

荒木 経惟 Nobuyoshi Araki

会場全体を見回してみるとでかい作品が少なくなりましたね。大きい写真は環境になっちゃうということに気がついてきたのかな。それから俺が始めたんだけど私的な写真、私空間に入っている写真というのはつまらないね。つまらないというのか、私写真も一種の距離感がないとダメなんですよ。公募に寄せられた私写真のほとんどが距離感が全くなく、ただ撮ればいいというような感じになってしまっている。私事を撮ればいいというような感じになってしまっている。私事を撮れば私空間ができると思っている様だけれども、それだけの「コト」になってしまっている。最近その手の写真が多い、これは風潮だよな。それではダメで、自分とのコトでも距離感を持たなくちゃダメなんだよ。「私写真よ、さようなら。」感情とか感性で勝負するのは止めた方がいい。身近なもので横着するな。実際にこう見ていると私写真に力がない。だからこそ反省するのに良い時期だ。写真の感覚や感情で勝負するというのはお終いにしよう。心情や気持ちをポーンと出すのはおもしろくない。大切なのは、外と外のぶつかりあいだ。今こそ勇気をもって動きださなくちゃ。どんどん行動だ。体張って、動いて、そして出会うということ、それこそ写真家にとっての人格だからね。

南條 史生 Fumio Nanjo

全体にムードが変わってきた。まず、セックスもヌードも減ってきた。でもポルノ的な仕草や状況は、もう潜在的にみんなの頭のインプリントされているから、あちこちに現れているけれど。それから、なんか目を合わせなくてもすむような、避けているような、逃げているような、つまり、相手と面と向き合わなくてもすむような作品が増えた気がする。それが時代を表しているのか、要するに自閉症的といえるのかもしれないが。元気なのは、外国に出ていった人。割と、日本的な悲観ムードから離れているのかもしれない。いい点は、色に豊かさを感じた点。いくつかの作品は、色のために作られていることを感じさせられる。絵画では昔から、線は思想を、色は感情を表すという。ということは、みんな感情の表現に向かっているのか。それから、グラフィックデザイン的な作品もいくつか散見された。日本のグラフィックデザインがいいというのは周知のこと。でも、それは半分は写真の力に頼ってきた。だから写真がデザインと密接なのは、当たり前だが、これまでそんなに目に付かなかったような気がする。私生活を描くのはいいけど、この腐った日本社会には、まだ沢山、批判することもあるだろう。怒ることもあるだろう。今の高校生の問題などの根元には、文化や教育の問題もある、馬鹿な大人、馬鹿な役人がどうしようもなくしてしまったこの管理主義で不抜けた日本社会に対して、言いたいことがもっとあってもいいはずだ。そういう作品は少ないなぁというのが概観です。

ジル・モラ Gilles Mora

今回、こうして日本の若い写真家たちの作品に直接触れることができたのは、私にとって大きな収穫でした。かくも旺盛に、若い人たちが写真という表現手段を使って作品制作している日本の現実は、私の現在の立場(編集者・写真フェスティバルのアートディレクター)にとっても大いに勇気づけられる出来事です。当然のことですが、作家としての“自らの視点・世界”を創り上げる過程として、古今東西の一流アーティストたちの作品からインスピレーションを受け、その模倣に終始する時期は、誰しもが通過するものです。美術の学生などが、カリキュラムのひとつとして偉大な画家たちの作品模倣を義務づけられることからも、この方法論は技術を磨くと同時に、自らの視点を客観的に検証するためにも大変有効なアプローチだと言えるでしょう。ただ、自らの視点で勝負するコンテストのような場面では、このレベルの作品群では通用しません。オリジナリティを持つということは、確かに易しいことではありません。でも、こうした広く開かれた『写真新世紀』のような場を十分に理解し、生かし、是非とも“自分の目を持つ”意欲のある作家が数多く巣立ってほしいと念じています。

倉石 信乃 Shino Kuraishi

まず応募作品の傾向が気になりました。ふだん、美術館や写真学校、ギャラリー、印刷物で写真を見て理解している印象では、若い人の作品には、何か、がらんとした風景写真が比較的多い。90年代後半は、「風景」がキーワードの一つになっていて、私は個々の作品に応じて反発したり同調したりですが、今回の公募では、良くも悪くも「人間」を撮ろうとする善意と意欲が強く感じられました。生の意味や、死への衝動や恐れ、傷や痛みや病など、容易に解決つかない問題をめぐる感情を、写真の余白に書きつけた人も目立ちました。でも、「私」に関する自己撞着的な問いの、「出口なし」状態を、写真を使うことで曖昧に解消した作品が多かった。適当に見切って、あとはすべて、物言わぬ写真に「私」を溶かし込んだつもりで満足している仕事を見ると、徒労感を覚えます。作品の体裁がぶちこわしでも、支離滅裂な訳の分からないものにたどり着くとか、いきなり過激に暴走するとか、ひたすら悪意を育て上げておくとか、何でもいいけど、問いの快適さに対して、荒々しい焦燥をぶつけたり冷徹な批判を込めていた作品は、さほど多くなかった。それぞれ大変まじめなんですが、それは世間的な常識の範囲でまじめであるに過ぎず、とてもセンチメンタルで軟弱だと思いました。いわゆる「私写真」的なものには、そろそろ見切りをつけないと。そんなに自分が大事かよって感じですね。私は、優れた写真家のように残酷に自分を切り捨てられないから、基本的に写真家という存在を尊敬しているところがある。だから嘘でも「自分なんていらねえ」と言ってのけて欲しいわけです。逆に、自分が曖昧に空っぽだから自分に甘く、おまけに他人にも甘い写真が多いのかもしれない。「これが私の見たものです」と写真を差し出すときに、その私をただちにかっこに入れて叩き出し、即物的に写真を成立させる、そんな率直さも必要です。写真の客観性と言い古されてきたものを、本気で再考する時期なのかもしれません。

PAGETOP

Copyright Canon Inc. お問い合せ サイトのご利用について 個人情報の取り扱いについて