第8回 写真新世紀展1999 公開審査会開催報告
公開審査会 1999年11月5日(金)

東京・四ツ谷、東長寺講堂・P3、「第8回写真新世紀展」会場にて、第19回、第20回公募優秀賞受賞者8名の中から1999年度年間グランプリを決定する公開審査会が行われました。 大勢の入場者が見守る中、グランプリに安村崇さん、特別賞に岡部桃さん、佳作から奨励賞としてたけむら千夏さん、谷いずみさん、原英八さん、古川まりさんが選ばれました。
公募の審査にあたって
第8回 写真新世紀展1999 公開審査会は第19回・第20回公募作品を対象としています。
第19回 審査総評
荒木 経惟 Nobuyoshi Araki
深刻風な作品が少なくなりました。どれも技術の水準はいい線いってる。まぁ、それは抜きにしても、以前より、考えているとか、考えてる風とかさ、そういう感じの写真がなくなった。それがいいかどうかはわからないんだけれども、みんな感じて撮ってることは確かだね。感情して撮ってるからいいんだよ。それから、クールな印象もなくなったね。でも、もう、カメラ自体がクールに出せないんだよなぁ。このたくさんある作品の中でクールっぽい作品は、つまらないし陰気なんだよなぁ。これからは、自分自身の生活や、人生に踊らなくちゃ。普通そういうことは、いけないことなんだけどさ。世の中景気悪いしね、そういう部分の批評とか、今回の作品の中にもでていますよ。全体的に可能性とピュアな部分があっていいと思います。
飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa
今回は応募数が増えて、見るのにかなり時間がかかってしまった。「写真新世紀」の特徴として、点数、サイズが自由というのがあって、それはそれでいいのだが、特に、ページ数の多いアルバム形式の応募が増えてくると、「いいかげんにして」と言いたくなってくる。量で見せれば良いというわけではないことを、ぜひ考えてほしい。一枚の写真の力が圧倒的なら、それにこしたことはないはずだ。モノクロームのプリントは、これだけカラー作品が増えてくると逆に効果的だが、残念なことにラフな仕上げが目立つ。隅々まで神経を働かせてほしい。
南條 史生 Fumio Nanjo
質は高い。数も多い。この公募展がますます多くの人の支持を集めている感じがある。作品の特徴は暗いものが少し減った。ヴァリエーションが増している。誰かに何かを演じさせてそれを写真に撮る。パフォーマンス系が増えた。
サラ・ムーン Sara Moon
写真を撮る事は、実際に撮った事実の集積から何か違うもう一つのものへ着地する手段だと、私は思います。そういう意味で自分なりの視点“Vision”が見えてこない作品群は率直に戸惑いと困惑を覚えるのです。写真のイメージが迷路から抜け出る作用を見る人に与えたとしたら、それは間違いなく良い作品だと思います。ですから、今回もこれほどたくさんの作品を見ていても、視点のはっきりした良い作品たちは、向こうから私の目に飛び込んできました。それらは、全く違うジャンルの作品でしたが、それぞれにストーリーを感じさせる若々しい作品です。どうぞオリジナルな自分の視線と手段を獲得するよう、たくさんの良いものを見て、自分でなければ出来ないイメージを追求して欲しいと願っています。
第20回 審査総評
荒木 経惟 Nobuyoshi Araki
全体的に楽しく写真をやっているという感じがありますね。誰のためにということではなく、自分のためにやっているという感じが出てきてとてもいいですよ。他の分野に比べて唯一先生がいらない分野だからね、写真は。お勉強をしなくていいんだよ。基礎はメカニズムがやってくれるでしょ。だから、すごくストレートに自分の感性が出せる。最初にクレヨンをもって、絵を描いてしまった少年みたいな感じでストレートに表現ができるんだよね。でも、単に技術的になってしまう人と、そうでない人がいるから、そこの境界線からが勝負だよ。川越えられて向こう岸か、こちら岸か、そこからが勝負なんだよな。今回は、きちんとわきまえた具体性のある写真というのが戻ってきました。しっかりとした具象化。今の時代がそうさせるのか、幸福の説明がある“写真の原点”が写っている作品がいいですね。
飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa
今回はレベルが高く、楽しく審査することができました。ただ、アルバム形式の作品などで、写真の枚数が、多過ぎると感じることがあった。盛りだくさんにしたいという気持ちも分かるのだが、絞りこむことで、かえって強くなる場合も多いと思う。佳作以外に選ばれなかった作品でも、丁寧に作りこんであって、惜しいと思うものが目に付いた。写真で、何かを語ろうとするときの方法論は相当に洗練されてきている。あとは、何を言いたいかを、明確に定めていくことだろう。
南條 史生 Fumio Nanjo
やはり何か言いたいことがある写真は強い。それは言葉で説明できることでなくてもいい。被写体の中から出てくるもの、自分が感じたもの、撮り方の中から出てくる必然性のようなものでもあると思う。今回は記憶、自分の存在証明、魂などを訴えようとした作品が多かった。しかしそれがほのかで、ふわふわしたものだと、単にセンチメンタルなイメージに終わる。感傷的でロマンチックなものでも、何か核は必要だ。それが若さでもいい、意志でもいい、迷いでもいい。でも何か訴えてくるものがなければ、見る人の心を掴めない。そこに、自分の私生活における感傷と、作品としての感傷との違いがある。その距離、その客観性が、視点のどこかに必要な気がする。それがプロとアマの違いにも通じる。全体に後ろ向きのテーマが多かった、20世紀の終わりに、後を振り返るのはいい、しかし来年は前を向いていきたい。
長野 重一 Shigenori Nagano
これまで接したことのないような肌触りのものを見たい、そういった新鮮な表現を期待して来たのですが、あまり見当たらなかった。ただ、撮った人の生理が感じられる様な写真はありましたが、このまま袋小路で終ってしまうだろうというものが大半のような気がしました。また、アルバム形式のものは、ほとんどがアルバム作りが目的になってしまっていて、そのための素材を集めている様な感じを受けました。写真というのは、撮る事、発見するという事が大事なんですよ。また、そこで考えたこと、自分が何かを体験するという事が写真を撮る一つの喜びなのです。そうではなく、アルバムを作るために必要な素材をコレクションして歩いているような感じがして、本末転倒というか果たしてそれで、写真を撮る喜びというのがこの人達にあるのかどうか疑問を感じてきました。撮った結果をセレクトして何かを構築していくというのではなく、そのページを埋めるために素材を集めているというのが問題点だと思います。ここまでこれが撮れたんだから、じゃあ、次に何を撮ろうかというような感じがない。写真というのは、撮れちゃったというところからスタートする事もありますからね。そこからそれを踏台にして、次へ進んでいってくれればいいのですが、それで、終わりになっちゃう。アルバムを作るということが目的になっていることが問題だという気がします。
